侃侃諤諤たる背方の筋斗雲

 降雨山川を代謝させ日々鷹揚たる夜明けの足踏みに雷鳴横から轟けば鳥どもも挨拶の相手を間違え落巣する。季節が変われども人の怠慢は根を張らせ、惰眠はそのまま翌日の労苦の賤しき種となる。誰が助力なき天の有り様、汝の為すべきを為せと無尽に殖える草々の、生命力、その輝き此れ対照的に。

 

 義務を果たすということ以外において東京での長閑な生活は実に自身の性質に合っていたと思わされる。すなわち、静寂。都会と田舎のどちらが喧噪に包まれていて煩雑であるかというと、間違いなく田舎である。都会の自分以外が全て他人でありどのような物音も距離も無関係であるその喧しさは耳の右あるいは左から入り、左あるいは右から通り抜けていく。そこに理念がなければそれは無音なのだ。群衆の中に放り込まれたビー玉は気付かれることもなく人々の足取りの間を縫って自分の落ち着くままに転がり居場所を自然と見つける。だが田舎ときたらどうだ。堅牢な壁がない。開かずの扉がない。俺の安らかな世界が馬鹿でかいくしゃみによって崩壊される。そんな蛮族のような同じ屋根下の隣人は他でもない家族なのだ。都会の安穏たる空気は俺をむしろ神経質にしたかもしれぬ。ついに俺は寝室から寝具・電源タップ・オタクフィギュアなどを全て寝室奥の納戸に移し、これにより部屋の外に出るためには2回扉を開けなければならない、電気を2回点滅させなければならない、というささやかな代償を払い、僅かながら防音にましな安寧の地を得た。

 

 今日の巡回は父親の体調が優れないということで、俺一人で行くことになり、諸君が嫌いな上司が休みだった時と同様の思いで、やったーと薄ら喜んでいたら、代わりに母親が私も行く!と言い出し、来んでええ!と心の中で叫びはしたものの、母も家で父と二人きりで過ごしたくないという魂胆が察せられるので、あまり強くは拒絶しなかった。弊害と言っても車の中でオタクミュージックを流しにくくなるくらいだしな。そうして母親と共に現場に向かい、ちゃっちゃと仕事を終わらせ帰り際に昼食を食べに徒歩1分、アピタに寄ることにした。

 母親と二人で外出したのは何年ぶりだろうか。買い物が目的でもなく、普段は食堂に一直線に向かうしかなかったアピタで、ふと目についた靴下なんかに、おっそういや靴下欲しかったわ、などと言って足を止めるなんて、家族との買い物があまり好きではない俺には、自分でも珍しく感じた。商品を握りしめ、ちょっとこれ買ってくるわ!と言ってレジに大股で向かおうとしたところ、自分のズボンのポケットの中が異様に自由であることに気付いたのだが、うっかり八兵衛よ、車の中に財布を置き忘れてきてしまったのだ。翻って母に財布車に忘れてきたわ!ちゅって、仕方ないので母親に靴下を買ってもらった。28歳無職独身。会計を母の横で待つのはちょっと恥ずかしい気がしたので、レジから20mくらい離れて待っていた。

 しかし28歳無職独身が平日の昼間に母親とアピタにご飯食べに行くと聞いたら君たちはどう思うか?俺は残念ながら感心しない。俺が今日アピタで何度かすれ違った30歳前後の青年はみな子連れであった。そのことについて何か嘆きたくなるような感情は別段湧きやしないが、逆の立場、彼らが俺の姿を見て、どっからどう見ても無職が歩いておる、母親の年金でアピタに買い物に来ておるな、としか映らんのが問題だ。おい、違うんだぞ、と弁明くらいはしたくなったが、事実手元に財布がないのだ。どうしようもない。俺に出来るのは絶望夜勤工場で働いていた頃に勤務中の暇な時間でこっそり練習したタップダンスで威嚇するくらいである。

 スーパーの生鮮食品、総菜売り場、パン売り場などの配置に綿密な戦略性があるように、複合商業施設アピタにも、靴下の陳列を撒き餌に、まるで蟻地獄の巣のような吸引力があった。納戸に引きこもるようになってから、元より収納してあった箪笥や棚を背もたれに使っており、やや背骨のあたりがゴリゴリする、こんなのもうコリゴリやねん、かねがね背もたれ用にデカいクッションが欲しいと思っていたが、靴下コーナーのすぐ反対側にクッションコーナーがあるのな。戦略かこれ?うまくできているもんだ。母親についでにこのクッションも欲しいと言って、筋斗雲のようにふかふかで俺の背中の大きさよりも五倍くらいデカいクッションを買ってもらった。レジから20m離れて会計を見守りながら喜びのタップダンスである。

 あと他に欲しいものが冷蔵庫だ。冷蔵庫を買ってしまえば俺の生活は一層完成される。引きこもりとしての最終形態までの道のり、今日は人造人間17号を吸収したセルのような気分である。アピタの中の電化製品売り場で冷蔵庫まで買ってもらおうかとも思いが浮かんだが、それはなんだか強欲な気がしてやめた。というより、ショッピングするなら一人で気ままにしたいと思ったので、クッションを抱え店を出て、帰ることにした。

 

 こうして、もはや部屋というよりも巣と呼ぶに相応しい薄暗い俺のねぐらに馬鹿みたいに巨大で柔らかな背もたれが設置された。これは背中で乗る筋斗雲だ。そう思うと俺は精神だけならばどこにでも行ける気がして快活になった。

空論に猿の腰掛け

 人類が生まれてから悠久に流れる時間という概念がかつて止まったことがなかったために、ブログを書くということ以上に、文字に対する恐怖、これは働かざる者の持つ疾病であるが、生活の中で何事も起きぬので何も書くことがなく、書くにしてもそれが誰の何のためになろうか?などという存在感の恐怖が文字鍵盤のキーを一つ一つ固く鈍くするのである。

 今日は2年ぶりに外出した気がする。いや、いくら俺がほら吹き男爵、誇張表現のチョロ助だと言っても、2年間全く外に出なかったというのは嘘になる。だが2年で積もらせた部屋角の読みかけの本たちの上の埃ほどにも、外に出たからと言って特筆するようなことはこれっぽっちも起こらず、本当の本当に、誰かに ねえねえ、聞いてよ って語り掛けたいようなことはなかった。これは悲しいことだ。みんな俺のこと覚えとるか?鈴木裕太くんやぞ

 

 俺がいつものように、後の記憶に残らぬような、こうして文字鍵盤を叩きながらすでに思い出せないような時間を過ごしていたところ、弟が実家に寄ってご飯を食べに来たところから約2年ぶりに俺の記憶は始まる。

 食事を済ませて部屋に戻り、オタクのツイキャスを荒らしていたら、弟が部屋にやってきてブロリーの映画を見たいと言い出すんである。前々から弟からはブロリーの映画を見に行きたいと誘われていたのだが、高校生以来映画館に行ってない俺としては、あそこは健常者の行く場所であって、俺の行く場所ではないという意識があったので、これまで渋っていた。だが、今日は行くことにした。クレープが食べたい気分だったからである。

 愛知県民にとってはイトーヨーカドーを制覇した者が次に行くところがイオンである。イオンには映画館もあるし、たくさんのスイーツ屋もある。イオンに着いてまず最初に映画のチケットを購入し、上映まで1時間ほど時間があるのを確認し、クレープ屋に行く。

 俺の配慮というか、繊細さと言いますか、諸君もよくツイッターにスイーツの画像とかあげるではないですか。するとテーブルにコップが二つ置いてあったりするではないですか。誰?家族?男?女?え?え?って思いながら見とるからな俺は。許さんぞお前らほんとに。その点、配慮の塊であるところの俺はクレープだよ~って写真にきちんと弟を映して撮影。チョコバナナホイップカスタードクレープ450円、んまかった。

 

 1月の寒さにイオンモール内も若干冷えており、映画を見ながら体をぶるぶる震わせるよりは汗をかいてもよいので温かいものを飲んで、ゲームでもして運動したほうが良いと思われたので、ドトールに行きホット抹茶オレを注文し、そうしてゲーセンの車でエイリアンと戦うよくわからないゲームをして最高のコンディションを整え、映画館へ。

 映画の内容はとても良かった。評判通りである。良かった点は三つある。

 まず一つが、ブルマとフリーザドラゴンボールを集める理由である。物語においてオチを付けるために二つのものを対比させたり、連続させたりすることがあるが、今作のブルマとフリーザは、ドラゴンボールという作品の時間軸において、現在の段階で出来る物語展開での最高の理由付けであり、これを評価したい。

 二つ目が、ブロリーの体がどんどんデカくなっていくところである。パラガスが流刑にされたブロリーを発見した時に、戦闘力が高まるとブロリーの体が大きくなるというのを、戦闘服の伸び加減で説明する。今作でブロリーには長い戦闘シーンがあり、これを、ただ男同士が殴り合ってる様子を冗長なものにせず、時間が経てば経つほど迫力のあるものにする演出である。男の子というのは、大きいものが好きである。グレンラガンで最終的にロボットの大きさが約1500憶光年になったり、ギャグマンガ日和の前野のIQが5憶だったり、そういうアホみたいな規模やサイズ大きさに男の子は惹かれる性質がある。ドラゴンボール(特に後期)では、敵がパワーアップすると小型化したりスマートな容姿に変身することが多い。逆説的な驚きを読者にもたらすためである。だが、ブロリーの強さこそが真に王道であることを、今作で思い出させられるのだ。戦闘時のGoブロリーGoGoっていう曲もほんと良かったね。

 そして三つ目、これは言うまでもないことだが、ブロリーたちの戦闘を見守るチライ(緑肌のショートヘアの女の子)の尻のラインね。ああ、言うまでもなかったね。しかしあれだ、ブルマといい、ギネ(悟空の母)やチライといい、ドラゴンボールの女性キャラってかわいいな。

 惜しい点をあえて一つ挙げるとすれば、パラガスの扱いであった。というのも、ブロリーを扱った映画は旧作でも3作あり、それらと今作を比べてしまうのは(あまり良いこととは言えないが)どうしても避けられない。ブロリーが初めて登場した劇場版では、ブロリーは父であるパラガスを自らのマッチョパワーで殺めている。ここに父殺しという大きなテーマが直面しており、俺個人としては今作ではそれがどうなるのかを期待して見ていたが、少しばかりあっけない感じがあった。しかしまあ、これに関してはチライがかわいいなという感情で流せる程度のことである。

 

 こうして、とびきりZENKAIパワーを全身で感じながら映画を見続け、EDのクレジットが終わりを迎えた時、まるで自分がカンヌ映画祭の会場にいるような気分に包まれ、高揚して思わずスタンディングオベーションしそうになってしまった。 

 映画館で映画を見るのは実に高校生ぶりであった。あの頃の自分と比べると涙腺が非常に脆くなっているのがとても心配で、今の俺はアニメを見ればすぐ泣くようになってしまっていて、弟にアニメで泣く姿を見られるのは絶対に避けたいと思っていたのだが、映画が始まる前に流されるワンピース映画の予告CMの時点ですでに泣いたからな。

改悛は偏見の黴風なりや

 年末にHPで注文したパチョコンが来ない。正月に来月下旬まで待ってくれとメールが着たので、うむ、と頷いた。2月に来月上旬まで待ってくれとメールが着たので、待つことにした。3月となって白ヤギさん食べるお手紙すらもなくて餓死寸前。

 年明けを待たずして仕事をやめてからの鈴木の裕の太はどうだったか?君たちは知っとるか?

 まず1月は、俺にとって正月には実家に帰らなければならんという古めかしい風潮などはマサイの戦士がスマホに順応している実生活を、見よ、それは慣習と慣習の、帆の張られた船と船の間に掛けられた丸太の上を歩いて渡っている。しかし俺は帰ったんである。実家に帰って親戚一同を祝福し、親に4月に仕事辞めてこちらに戻ってまいりますと嘘を付いて来たんである。それまで東京に飽きてやろうという魂胆である。この時、貯金はたくさんあった。

 2月は、自分の価値を高めたい気分になった。人の価値とはなんぞや?君たちは知っとるか?俺は歯を人以上に白くしたいと思ったので、去年親知らずを抜いてもらった医院の電話をけたたましく鳴らし、愛の女神が持つ完璧な楽器のような調子で予約を取った。今度はきちんと予約をしてから行ったので、俺の人としての価値は高まった。歯のホワイトニングの前には一通りの治療を済ませる必要があり、俺に新たな虫歯が見つかってしまったので、歯を白くする前に歯を削って金属をあてがうことになった。君たちはジルコニアを知っとるか?銀歯は死んでも嫌だったので銀色ではなく白色の金属を詰めることにしたんだが、これは保険が効かない。なに、俺には貯金がある、ホワイトニングと合わせて歯に10万、自分磨きですしよろしいでしょう。この時、貯金はまだたくさんあった。俺は使うべきものに使うことを知っている。ファイアーエムブレムスマホゲーに課金もしたがな。

 3月は、やたら酒を飲んでいる。仕事を辞めた時に職場の人に下北沢の朝からやっている飲み屋を教えてもらい、頭から酒を浴びているような人々が集まる酔っ払いの終着点で、みんな泥だ。俺も泥になっている。

小学生の頃、雨の日に、通学路でどこから垂れたのか、油の滲んだ水溜りを見たことがあるだろう。あれは虹色をしていて目には麗しいが、汚染されている。酒を飲むというのはあれを啜るようなものだと思う。酔っ払いにも良い人悪い人があるが、若い人間で、オタクでなく、沖縄の出身で、酔っ払っている者は全て悪だ。アリストテレスが生き物を分類する上でこれをきちんと記述しなかったのはなんとも嘆かわしい。彼らは複数人で酒を飲むと絶対に金を出さない上に暴力沙汰を起こす。暴力は最悪だ。俺は直接被害に遭ってはいないが、後処理で苦労をした。これは俺の人間関係の希薄さから招かれた前史時代のいかづちである。火を初めて見る人間がどうして火傷を免れようか。貯金は少し減ったが、まだまだ余裕はある。しかし、オタク以外に迎合すべからずと、通帳食べた黒ヤギさんが鳴き出した。

 俺はオタクを愛しているんだと、しみじみ思った。

なべて世はこともなく

 10月に兄が結婚し立て続けに翌月11月には姉も結婚し、鈴木家は寿の二歩であったが栄華ここに極まることなく更に順風満帆に栄えていくだろうと思われる。35にして結婚という姉の遅咲きにも涙ぐましいものがあったが、7年付き合った彼女と結婚した兄の挙式は特に感慨深いものであった。というのも彼らの巣入りのあらましには俺も一端を担ったからである。

 それは7年前、俺が高校3年生の夏に部活の引退を迎えた時のことだが、懸想をしておった2つ学年が下の美咲ちゃんという同じ部活で俺と同じく走幅跳をしていた子にもう一緒に練習ができなくなるからと思いの丈を伝え、見事OKを勝ち取った俺の心は無限に空気の入った風船のように飛翔し、天を千鳥足で駆け巡り、顔は祝福された大黒天で、家に帰ってから家族と一緒に夜ご飯を食べながら俺彼女できたんだ〜と発表し、告白時の心境について、轟然とした心拍と世界の回転によって血液は渦巻き、口腔は砂漠の昼空となり、声を詰まらせた舌は反芻する駱駝のようになり、すなわち死ぬほど緊張した、と語った。それを食卓で聞いていた俺と同程度に奥手な兄は、この健気な弟が勇気を振り絞って告白し彼女ができたという話に勇気付けられ、生まれて初めて未来のお嫁さんとなる相手に愛の告白をし、付き合い始めた、というのがこの度の寿の顛末である。兄は7年付き合って結婚し、俺はものの1ヶ月で振られたというのはささやかながら全米大感動のストーリーだろうな。

 そんな兄が先週姉の挙式に参加した際、挙式の最中にハンカチをズボンのポケットから取り出し涙を拭いているのを見て俺は式中ずっと心の中で顎を撫でながらニヤニヤしていたのだった。当然姉の花嫁姿というのも俺の涙腺を打ったものであった。

 姉婿とは結婚式が初対面だったのだが、集合写真を撮るときに挨拶をしにいったところ、姉が「これ弟だよ〜大学生の頃の私にそっくりなんだよ〜」と紹介してくれ、姉婿といえば「◯◯(姉の名前)よりかわいいじゃんw」と冗談を放ったので、このお上手めが!と小突いた。しっかりと姉を幸せにして欲しいものである。

 

 しかしながら、鈴木家は4人兄弟と言えど急に2人も実家から新居に越したのは一抹の不安を俺に起させる。両親はとうに老齢であり、父親に至ってはもう70に近く、飼っているわんわんも11歳という初老で、姉の結婚式翌日にお前なりの祝宴のつもりか?というような目出度い色の赤い尿を出し、俺が母親に付き添って動物病院に連れて行った。幸いそこまで深刻な病気でもなかったが、これから先、父も母も犬も歳を取り、そして生きるものすべての宿命としての点に辿り着く。その道中が不肖息子ながら心配なのである。

父に関しては矍鑠として事業を拡大しようとしており、その心意気に老体は遅れをとっていて、本来なら数年前には俺が引き継がなければならないものだったのを俺の東京への愛着やら未練やらがそれを遠ざけていたが、そろそろ俺は愛知に戻らねばならん、というのを深く感じている。

 生きるものすべての宿命として、人間ってやつは臨終に訪問する死神がもの忘れをしない才能を持て余すことなく行使するのと同量の責務を果たさねばならんこともあるのだ。父よ餅をまるごと食うのをやめろ。

神行太保の揺るぎなき快活な朝

 腹直筋は腹の甲羅であり、甲羅は外部からの衝撃を受け止めるのみならず内部からの膨張を防ぐ役割も担っている。

 8歳から18歳まで10年間常になんらかのスポーツクラブに所属していた俺の腹の甲羅も7年の堕落した歳月、怠惰の苔むす風によって老朽化し、かつてのモテスリムな身体からもどこかしら古城のような寂れを感じるようになったしなんか食後とか腹のあたり触るとブヨブヨするねん。

 つまり退化による進化などというものがあり得るのかという命題だが、アンチ・エイジングは時を遡らんとする望みであり、前進である。

 思い立ったが吉日。これが俺の行動根幹・基底であり、朝8時家に帰るなりすぐにタンスの「こんなこともあろうかと」シリーズの保管されている引き出しを開け、高校で陸上をやっていた時に着ていたシャツとズボン、シューズを履き、クラウチングスタートでよーい、ドン、玄関を飛び出しランニング開始。

 腹を鍛えるのが第一目標なので、俺はその課題をこなすために己に制約を与えることにした。

 まず一つが、鼻だけで呼吸することである。皆も経験はあるだろうが、走っていると次第に肺は多くの酸素を得ようとするため段々と口が開いてくるのだが、ここで口で浅い呼吸をさせずに鼻だけで大きく吸って吐いての繰り返しをさせるとそれに連動して腹筋が深く芯まで動く。これが腹のダイエットには効く。そして酸素を薄くするためにマスクをする。俺はやってやるぞと覚悟を決めたら徹底する男だ。

 二つ目に、iPodを持ち、ちょうど1時間で構成されるインドの陽気な音楽を聴き終わるまで何があっても走り続けること。これはハンターハンターでライオンみたいな奴がアルバムを取り出しこいつを聴き終わるとジャスト1時間なんだがお前をこの曲を聴き終わる1時間でぶっ殺してやんよみたいなこと言っててかっこいいと思ったから俺も1時間の曲が終わると同時にゴールにしようと思ったわけである。

 

 久しぶりのランニングは快活だった。昨日夕方の気短かな雷雨は湿り気を残して今朝を涼しくしたし、通勤前のサラリーマン、通学中の小学生、犬の散歩をする主婦、集合して朝礼をしているゴミ清掃員、老若男女さまざまなランナーたち、その合間を縫って走るオタク俺。ビューティフルザワールド。世界は回り続ける。花壇の草花を滑り台にして遊ぶ朝露、シルクのような触り心地のする風、すれ違う子どもたちの喧騒、全て俺が忘れてしまっていた世界だ。

 すっかり気を良くした俺は通り抜けていく自転車たちも愛おしくなり、また、ちょっとビビらせてやろうといういたずら心も生まれ、後ろから俺を追い抜かして行こうとする自転車が俺の横に来たその瞬間にランニング速度を急激に上げ自転車の走る速度ピッタリ横について走ってみせて、え?なんぞなんぞ?という顔をした主婦が驚きの表情と共に自転車を忙しく漕いで俺を置いて去ってゆくのを見てククク…と笑って見送ったりもした。

 しかし流石に自転車と並走するのはこたえたので、というか足と肺がそれぞれ裏返るほど苦しくなったのでマスクをポケットにしまい込み膝に手をついて呼吸を整え、そしてまたゆっくり走り出し、気分を変えるために曲を何度も変えているうちにそう言えば最初からカウントして何分走ったっけ?ってなってえーっと、たぶん3、40分くらいは走ったと思うしまあいいや帰るかつって帰って来ました。

 

安寧穏便無味にして曖昧


 俺を封印する立方体すなわち部屋の中に置かれたごみ箱すなわちバケツから湯気でも出ているのではないかと疑わしいような腐乱臭が釣り針となったのか小蝿の類が何処からともなく手繰り寄せられたかのように現れ、彼らの目的は生存であり矮小ながらきっと合理的であり機械的だがぶんぶん飛ぶその虫を1匹、両手ではたき殺め、その犠牲の上で俺は成り立っている。いや彼らは犠牲などではない。犠牲とは体裁を整えれば救済の一手段であり、例えるならホイップクリームを捻り出すあれあるだろ、あれみたいだろう。彼らは幸いか?俺に殺されるために生まれて俺の胃袋も睡眠欲も満たされるわけでもなく、ばっちいからティッシュで包んでプチっと潰して止めを刺して殺したんである。生命とはなんぞや。視界とはなんぞや。虞や、虞や。
 しかしどうも部屋に迷い込んでくる虫の数が多いのでインターネットの情報網を駆使し俺がこの春すでに6匹殺した黒いてんとう虫のような生き物について調べたところ、カツオブシムシという名前の虫らしく、こいつは衣服の繊維などを大量に食う繁殖力の強い害虫で一度繁殖すると駆除するのが難しくなるらしい。これはいかん!皆殺しにせねば!生命の尊さ儚さは実生活の煩わしさには勝てんのだ。俺はそれが悲しい。
 そうして雪原のごとくたまった埃、険しい山のごとく積み重なった衣服を掃除洗濯しようとした矢先1時間後に俺の家から徒歩10分の場所で午前150人午後150人参加というなかなかの規模の格ゲーの大会が開かれるという情報をキャッチしたので、こうしてはおれん! 皆殺しにせねば!といきり立ち10分で風呂に入り走って会場に駆け付けエレベーターで5階まで登り、エレベーターの開くボタンを押してどうぞどうぞと他の搭乗者を先に降ろすという余裕っぷりも見せ、スタッフに、おいエントリーしたいんだがと申しつけたところ、人が多すぎて当日エントリーはやっとらんと言うんである。聞いてねえぞこの野郎という気分だったが俺が何も調べてないだけの話なので、笑顔でさいですかと受け答え、くらげのように会場をふらふらしてそのまま退場し、近所のスーパーで豆乳を買って帰ってきた。
 愚かにも日々を無味にして曖昧にする男の乗った天秤のもう片側に6匹の小さな虫の死骸がぱらぱらと注がれ一体どれだけ量りが傾いたというのかね。安寧と穏便は無味にして曖昧であるよ。


夜も働けば長し死せよオタク

 かつて人類がまだ四本脚だった頃の話だが俺は逆さまにしても落ちないビー玉の入った瓶をまさに逆さまの状態で心に抱きながら一歩歩いてはカラン、一歩歩いてはコロンと、零れようにも落ちぬ切ない感情を刺激する鼓膜へ音を振動させ、腑にぷかぷか浮き、鋭音胸中をつんざくもそれは恋心に依って腸閉塞、しかして熱は鈍痛に、霧雨の夜新宿御苑を傘も差さず髪から水滴を垂らしながら練り歩いていた。
 時は行きて2016年春俺は相変わらずうだつの上がらない前途まじ無さげな畦道をてちてち歩いている。
2月、3月の忌々しいほどの忙しさから解放され工場は平和であった。
人が足りていたらあっちに回され人が足りなくてもこっちに回される便利屋な俺はこの平和な工場のいつもと違う班で作業をさせられていたんであるが、いつにも増して違うのは歳若き女の子が半径2m以内にいるということだった。済ました顔は作れども恋の免疫不全である俺は超ドキドキしながら作業をこなし、べ、べつに好きとかじゃないんだからねっ!と無言の(かつ無駄な)配慮をしてなるべく目を合わせないように努めていたが、やはり、可愛げなものを見ることによるヒーリング効果を人類は古くから経験によって知っており、遺伝子に刻まれた会得的行動によって俺はヒーリング効果を得んとすべくチラ見をすること百万、百億、百兆を超え、眼球の往復は地球の直径をもまたぐ距離ともなった。
しかしまあ、小学生の頃からどっぷりインターネットに浸かっていた俺にはおしなべて距離感というものが分からんのだ。俺の方向および距離の感覚の基底には、そもインターネットがあり、言わば大地は亀であって亀はすなわちインターネットであって、亀の上に俺がいて、海には日が文字通り沈み、海の向こうなんぞありゃしねえ、という世界であって、神は7日間のうちまず1日目でインターネットを作ってあと6日間休んだし、虚構と現実の逆転現象、遊戯王で例えるなら現世と冥界の逆転、しかるに、現実に腰を据えて生きている人々なら現実の捌け口がインターネットである所を、俺の場合はインターネットの捌け口が現実となってしまうのであって、なんかもう現実でいいからいいこと起きねえかなあとか思っているんだがこれはもう完全にお前らのせいであって、ちゃんと構ってくれないお前らが悪いので反省するように。
 そういうわけで、ドキドキワクワクな俺の労働はなんか話しかけちゃおっかなーでも恥ずかしいしなーというときめきで満たされており、ときめきメモリアルで特訓した会話術もここで開花すべしとばかりに会話の選択肢が脳内に提示される。いまこの子がやっている作業は腕に擦り傷付くんだよな、そうだ、そのことを心配していることを伝えよう、あー君、それやってると腕メンヘラっぽくなっちゃうよね気を付けてねクックック…(作業に戻る)
なんか失敗した気がするけど、いやどう考えても失敗したなこれという感じで愛想笑いしてそれきり本日のメモリアルは終了したのである。
 やっぱり俺にはインターネットしかないっしょ、と霧雨の朝の中てちてちと歩きながら帰路へ。